並び替え | | | タイトル | | | 日時 | | | ヒット数 | | |
石狩市(浜益中央公園内) | |
浜益は、アイヌ語で、「ヘロカイリシ」(「にしんがたくさん獲れるところ」の意)と呼ばれていたほど、古来から「にしん」の漁場として知られていました。江戸時代後半には、「にしん」のシメカスが関西方面に運ばれ、木綿や菜種の栽培を支えました。 明治から大正時代は、浜益の「にしん漁業」の最盛期で、道内屈指の漁場として建網は百五十四を数えました。 しかし、昭和三十年を最後に「にしん」は突然姿を消し、当時の「にしん番屋」が「はまます郷土資料館」として、その名残をとどめているのみです。 近年、浜益をはじま、石狩湾沿岸では... | |
住所 | 石狩市浜益区浜益630番地1 |
旧商家丸一本間家 | |
住所 | 北海道増毛郡増毛町弁天町1丁目 |
寿都町 | |
寿都町はニシン漁によって栄えた町であり、記録上に地名がでてくるのは、寛永九年(一六六九年)、シャクシャインの乱の記録の中に、「このころスッツ、オタスツ、イソヤは商場所ができていて、交易が盛んだった」と記されている。 豊富なニシンを背景に、集落を形成していたとみられ、これが寿都町の始まりとしている。 明治二年には、寿都、歌棄、磯谷それぞれの商場所は、場所請負人によってしきられ、漁具・漁船の改良による生産拡大のほか、道路の開削や土地の開発、漁港、船澗、袋澗の改良、子弟の教育など地域に大きく貢献し、千石場所と... | |
住所 | 寿都郡寿都町字大磯町29番地1 |
石狩市(夕日の丘駐車場横) | |
「あつた」の地名は、歴史を遡ると松前藩の「新御国絵図」(寛文元年1661年)に見ることができます。 また、天保十一年(1840年)以降は増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになりましたが、それまでは厚田場所が西蝦夷地の北限でした。 「にしん」の北上とともに松前、江差方面の漁夫も北上し、松浦武四郎の「西蝦夷日誌」(嘉永三年、1850年)オショロコツ(押琴)の項によれば、訪れる和人は一万人もいたとされています。押琴の泊は、弁財船(千石船)が三十隻も停泊できる良港で運上屋も建てられ、古潭、押琴一帯は大変な賑... | |
住所 | 石狩市厚田区厚田12番地4 |
積丹町 | |
積丹の地名は、アイヌ語の「シャクコタン」から転訛したもので、「シャク」は夏、「コタン」は部落又は集落のことで「夏の場所」という意味である。 宝永三年(一七〇六年)に積丹場所と美国場所の運上屋が設けられると、両場所は次第に漁場として開発されるようになり、その後、明治中期には鰊漁が最盛期を迎え、海が鰊の大群で銀色に染まるほどだったと言われている。 鰊大漁と共に人口も増加し、大正六年には一一七三五人を数えた。 鰊が人々の定住を促し町を形成し、文化、歴史を育んだ。 エーヤーレンソーランソーラン ソーランソー... | |
住所 | 北海道積丹郡積丹町大字美国町字船澗48-5 |