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岩内町 | |
ここ岩内では、江戸時代から明治末期まで、主なる海産物は「にしん」でした。 明治三十五年には、岩内郡の沿岸、雷電から泊・臼別まで「にしん」の定置漁場が一〇二ヶ統ありました。 「にしん漁」の好況は町の繁栄にも深く関わりました。 やがて、大正期に入ると、「にしん漁」は衰退していきます。しかし、優れた加工技術が備わっていたので、それを生かし、「にしん」を移入しての加工となりました。 現在も海外から「にしん」を取り入れ、絶えることなく続けられています。岩内は「ミガキにしん」の生産高は全国で高い位置を占めています。... | |
住所 | 岩内郡岩内町清住5番地3 |
泊村 | |
ここ泊村では、今から三百年程前(江戸時代)より「にしん漁」が始められ、明治中期より大正末期までは「にしん」の千石場所として栄え、村の発展に大きく寄与しました。 最盛期は泊村に五十を超える魚場があり、「にしん」の建網九十二ヶ統、網元が個人で作ったミニ漁港(袋澗)もおよそ四十ヶ所在ったといいます。一ヶ統に要する人数が四十人程度ということから、東北の各地から働き手である「ヤン衆」が相当数来て、泊の浜も大変な賑わいだったようです。 春にまると、「群来」という浜言葉があるように、海を埋め尽くすほどの大量のニシンが... | |
住所 | 古宇郡泊村大字泊村59番地1 |
積丹町 | |
積丹の地名は、アイヌ語の「シャクコタン」から転訛したもので、「シャク」は夏、「コタン」は部落又は集落のことで「夏の場所」という意味である。 宝永三年(一七〇六年)に積丹場所と美国場所の運上屋が設けられると、両場所は次第に漁場として開発されるようになり、その後、明治中期には鰊漁が最盛期を迎え、海が鰊の大群で銀色に染まるほどだったと言われている。 鰊大漁と共に人口も増加し、大正六年には一一七三五人を数えた。 鰊が人々の定住を促し町を形成し、文化、歴史を育んだ。 エーヤーレンソーランソーラン ソーランソー... | |
住所 | 北海道積丹郡積丹町大字美国町字船澗48-5 |
石狩市(浜益中央公園内) | |
浜益は、アイヌ語で、「ヘロカイリシ」(「にしんがたくさん獲れるところ」の意)と呼ばれていたほど、古来から「にしん」の漁場として知られていました。江戸時代後半には、「にしん」のシメカスが関西方面に運ばれ、木綿や菜種の栽培を支えました。 明治から大正時代は、浜益の「にしん漁業」の最盛期で、道内屈指の漁場として建網は百五十四を数えました。 しかし、昭和三十年を最後に「にしん」は突然姿を消し、当時の「にしん番屋」が「はまます郷土資料館」として、その名残をとどめているのみです。 近年、浜益をはじま、石狩湾沿岸では... | |
住所 | 石狩市浜益区浜益630番地1 |
石狩市(夕日の丘駐車場横) | |
「あつた」の地名は、歴史を遡ると松前藩の「新御国絵図」(寛文元年1661年)に見ることができます。 また、天保十一年(1840年)以降は増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになりましたが、それまでは厚田場所が西蝦夷地の北限でした。 「にしん」の北上とともに松前、江差方面の漁夫も北上し、松浦武四郎の「西蝦夷日誌」(嘉永三年、1850年)オショロコツ(押琴)の項によれば、訪れる和人は一万人もいたとされています。押琴の泊は、弁財船(千石船)が三十隻も停泊できる良港で運上屋も建てられ、古潭、押琴一帯は大変な賑... | |
住所 | 石狩市厚田区厚田12番地4 |
旧商家丸一本間家 | |
住所 | 北海道増毛郡増毛町弁天町1丁目 |
旧笹浪家住宅 | |
住所 | 北海道檜山郡上ノ国町上ノ国 |
旧中村家住宅 | |
住所 | 北海道檜山郡江差町字中歌町22 |
佐藤家 | |
住所 | 北海道寿都郡寿都町字歌棄町有戸163 |
鰊御殿とまり | |
住所 | 北海道古宇郡泊村大字泊村59−1 |